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『米沢と沖縄県を繋ぐ沖縄県令の上杉茂憲公について』渡邊敏和

 寄稿者略歴

1 渡邊敏和(わたなべ としかず)
  昭和31年、山形県東置賜郡川西町上小松生まれ。山形県立長井工業
  高校卒業。平成17、18年、川西町獅子頭展実行委員長。 置賜民俗
  学会理事。



(米沢日報デジタルインデックス写真=「上杉茂憲(40代)」、米沢市上杉博物館所蔵)
  
はじめに
 昨年令和7年は太平洋(大東亜)戦争の終戦から80周年に当り、戦争に関するイベントが多く開催された。戦争末期の沖縄県ではアメリカ軍を主力とする連合軍による攻撃により多くの犠牲を出して県土が荒廃した。
 その沖縄(琉球王国)は慶長14年(1609)の薩摩藩の武力制圧により間接的に日本の属国となっていた。しかし、名目上、隣国の清(中国)からは琉球王に任命される冊封関係を維持して朝貢貿易により琉球王国を存立させていた。日本政府は、抗議する清を押し切り、明治12年(1879)に沖縄県を設置(琉球処分)して正式に日本国内に組み入れた。
 そのような難しい国際状況の中で、同14年に2代目の沖縄県令に最後の米沢藩主である上杉茂憲(もちのり・1844~1919)公が就任した。このことが、現在、雪の降らない沖縄の子供たちが冬季間に山形県を訪れ、山形の子供たちが温暖な沖縄を訪れる交流を続けている要因となった。山形県ではあまり知る人がいない沖縄で敬愛される上杉茂憲公(以後、公を省略する) の知られざる沖縄愛を紹介してみたい。

一、上杉茂憲公と沖縄県との出合い
1 明治4年(1871)7月14日の廃藩置県により上杉茂憲が最後の米沢藩主(のちに米沢県知事)であったのはわずか1年7ヵ月にすぎず、直ぐに東京在住を命じられた。
(写真右=「上杉茂憲(40代)」、米沢市上杉博物館所蔵)

 翌5年、茂憲は明治天皇の華族に海外留学を促す勅諭により1年余り英国留学し見聞を広めている。その間、妻の会津藩主松平容保の妹幸(こう)と3歳の長女錦を相次いで亡くし、故あって、側室の旧臣竹俣権平の娘猶を正室に、華族松平乗命の妹敏を継室に迎えたがいずれも短期間で離縁した。同8年12月2日、東京士族の伊藤清久の長女兼(かね)を後添えとした。
 慶応3年(1867)に世子小姓として茂憲に近侍する5歳年上の池田成章(1840~1912)は、茂憲が身体頑健なのに医師と薬剤に依存し、家計を圧迫していたと自伝的回想記の「過越方の記」に書いている。また、明治に入っても成章は上杉家の家令として茂憲に仕えていた。
 明治14年5月18日、上杉茂憲は、病気を理由に沖縄県令を辞任した佐賀鍋島家の分家の藩主鍋島直彬の後継として2代目の沖縄県令に任じられた。また、その補佐として池田成章も内務省准奏任御用掛と兼任で沖縄県御用掛(同年10月26日に権少書記官に就任)として同行することとなった。鍋島家と上杉家は先祖が縁戚関係にあり鍋島県令とは遠い親戚であり、茂憲が政府に提出した「親族書」にも掲載してあった。
 政府は、清国との複雑な問題が存在する沖縄県令には、全く関わりのない北国東北出身の殿様であれば、沖縄との言葉の違いから元琉球王国の官吏、地元住民と関わりも起こさないと考えた。県令引継ぎに鍋島直彬からも沖縄県は内務省の管轄になっても、政府の意向で親清(中国)派を懐柔する「旧慣温存」の統治方法をとっていると伝えられていた。
 前年13年10月には、アメリカの前大統領グラントによる「琉球国の分島、改約案」が示され、八重山、宮古の両先島を清国に譲る代わりに「日清修好条規」を日本側に有利に改正する交渉をしており、条約を調印する目前まで進んでいたが、清国側の調印延期となっていた。当時、このような「琉球問題」を抱えていた。また、上杉家は戊辰戦争の際に「奥羽越列藩同盟」の一翼として政府軍と戦っていることから困難な役回りを上杉茂憲に押し付けた。
 しかし、上杉家には中興の祖で藩主治憲(鷹山)公という名君がおり旧米沢藩士たちには鷹山公の「愛民の思想」と「なせば成る、なさねば成らぬ何事も、成らぬは人の、なさぬ成りけり」という精神が脈々と受け継がれていた。藩祖上杉謙信公以来、尊皇を掲げる上杉家には、戊辰戦争での逆賊との汚名を雪ぐよい機会として旧家臣たちは、殿様茂憲を支えていく。

二、県令上杉茂憲の沖縄県内視察
 県令任命の約1ヵ月後の6月14日、茂憲一行は沖縄に向けて本郷の上杉邸を出発
した。同行者は、執事(親戚で旧旗本高家衆)畠山義孝、元藩士の左近司六蔵、三俣元三郎、料理番の清水熊吉、御用掛池田成章と同従者竹津友次郎と女中嘉寿の8人。父斉憲と家族は横浜埠頭まで見送り、一行は三菱会社の名護屋丸に乗船、神戸港で沖縄行きの黄龍丸に乗り換えて同月25日に那覇港に着いた。県庁舎は首里から那覇港に近い見世の前大通りに新築移転し、同月18日に落成開庁式が催され、前鍋島県令が出席した。同月28日に政府は、「旧慣温存」の方針を再確認している。鍋島は、29日に茂憲に事務引継ぎをして、翌日、黄龍丸にて帰京した。 
2 前鍋島県令は毎日、県庁から1、2町の旅館から馬や駕籠で出勤していたが、茂憲は5、6町離れた久米村の借家から毎日徒歩で従者2人(のち左近司か三俣に高良次郎)と見聞しながら通った。同じ店子の子供が病死したと聞くと、従者にいくらかの香料を親に届けさせた。そのことが県令から見舞が届いたと近所で評判になった。
(写真左=「首里城内部」、個人蔵、写真提供:米沢市上杉博物館)

 また、内地遊学の志がある士族の11歳の子供が転任で沖縄を離れる前野大尉に付いて行くと聞き、茂憲は褒めて褒美に金10円と菓子を与えたという。その時、大尉の通訳をしていて離任で失職する16歳の高良次郎という少年の両親を諭して、次郎を月給3円で召使兼通訳として住み込ませている。これらは鷹山公が家臣、領民らと接する態度と似ている。
 茂憲は着任してほぼ毎日、首里や周辺の景勝地などを散歩していた。9月15日には2人の県の役人(林、上野)の案内で首里の役所、警察署、学校、旧琉球国王の墓所円覚寺などを巡った。従者三俣は学校一校ずつ寸評している。10月になり久米村の借家が手狭となり、県庁近くの泉崎村の借家を県令私邸とすると連日、帰宅を待つ来客が絶えなく訪れた。役所の人間の他、商人、旧士族の陳情のほか、旧米沢藩士大滝新十郎(警察本署長、のち米沢市長 )、同じく大滝龍蔵(租税課長、のち米沢市長)など多くの旧家臣が来県し沖縄県庁に要職で採用され、三俣元三郎も一等出仕裁判掛となった。当時の県の官吏113人のうち沖縄県士族は19人しかいなかった。前鍋島県令からは元家臣を採用しないほうが良いとの懸念が伝えられてあった。 
 11月8日から12月4日に、茂憲は県庁通勤だけでは庶民の生活実情がわからないとして、沖縄本島(国頭、中頭、島尻)で巡察を実施した。先島の視察は翌15年8月である。
 鷹山公が藩政改革に際して実情把握を元としていたことから、県民の生活実態を把握し貧窮に喘いでいたら救済しようと、茂憲は鷹山公の精神を体現しようとした。県令の随行員は、医院長御用掛高尾宗沢、県官護の得久朝常、警部内川発、庶務秋永桂蔵(記録係・本島担当 )、上野太一郎、通弁(通訳)与那嶺三郎、三俣元三郎(記録係・先島担当 )、左近司六蔵で、 公式記録は秋永が記した「 沖縄本島巡回日誌」がある。また、三俣の筆記「上杉県令沖縄本島巡回日誌 附録」と、畠山の印がある左近司の「御巡回随行日記」や、茂憲の日記が「上杉家御年譜」に収められている。
 これらによれば、巡察は間切(数村を合わせた沖縄独特の地域区分)単位で行なわれ、作物の作柄、村の景況、窮民者の有無、小学校設立状況、産物の砂糖生産の実態、人身売買、負債など多岐にわたり、特に県設置後の県民の生計、暮らしの変化について質問した。しかし、間切の吏員の答えは一律に政府の方針に副って無事大過なく過ごしているとの答えである。茂憲は自らが見た現実との乖離に驚いた。 

三、沖縄県の旧慣習
 沖縄県における旧慣温存とは、琉球王国時代からの土地(地割)制度(村単位で田畑や山林を人口や資力に応じて一定年限ごと再配分して公租を確保する)、租税制度(農民は現在与えられている土地から村単位で納税する)、地方制度(沖縄には有禄と無禄〔無給で自活する〕の2つ士族がいて、有禄士族は王子や王子の子孫〔按司 〕、功臣など王府から土地〔采地又は領地〕を与えられた者〔地頭〕で、間切を与えられた者は〔惣地頭〕、村を与えられた者は〔脇地頭〕という合せて約360人が支配層を形成する)における特権(課税のなかから収入を得た)を温存することで、県民(村単位)が困窮する原因になっていた。
3 島民にとって間切の多い官吏などは税金をむしりとる連中として反感や憎しみ、役所も信頼されていない。能力がある県民(農民)がいても村単位のために活躍できない。鷹山公は藩士、領民の能力に応じて活躍の場を与えて米沢藩を復興、発展させたと茂憲は考えていた。
(写真右=「沖縄通堂」、個人蔵、写真提供:米沢市上杉博物館)

四、沖縄県令として中央政府に上申書提出
 明治15年3月、沖縄の県民を救う為には、政府が承認している「旧慣温存」を改めさせなければ、いつまでも県民が「税金地獄」から抜けられないと県令茂憲は政府(内務卿〔大臣〕山田顕義)に上申書を提出することを池田成章と協議し、池田は大蔵卿〔大臣〕松方正義〔前内務卿〕宛に出すことにした。これには、まず第一に間切の多い吏員の一掃という機構改革と、貧困にあえぐ沖縄県民を救いたいため、苦しめている根源の租税制度の根本的な改革を上申書(3月6日付)に認めた。県令茂憲は同月11日に上京して上申書を提出した。このころ、沖縄士族らが与那国から清国へ脱走している。
 政府上層部では、上申書を回覧し、元殿様県令が沖縄県内を巡察したことにも驚いたし、茂憲の沖縄県政への本気度が知られ、早急な「旧慣温存」の改定を求められて、外交や沖縄社会に与える影響の大きさから対応に苦慮した。内務卿から大蔵卿になる松方は日本銀行を創立し、兌換銀行券の発行を行なうなど財政通だった。また、内務卿の山田顕義は元軍人で先進的な法制改革を志向し、神道を重んじて国民教育に及ぼす考えを持って國學院大學の創設に関わる。松方は「琉球処分」を行なった松田道之に2通の上申書を見せて意見を求めた。彼は内容は正しいと思った。政府では自由民権運動の高まりから国会開設問題で手一杯で、上申書は棚上げ状態だった。返答のない県令茂憲は5月29日付で重税と貧困に喘ぐ県民の状況を詳しく追加して再度、吏員改正の意見書を提出した。
 これに対して政府は、同月31日、昨年12月に沖縄県から再申された無禄士族授産資金(7万円)の給与を決定した。また、6月14日、上杉県令の改革は時期尚早と上申書を却下した。だが、沖縄の実態を調査するために2人の官吏(尾崎三良と白倉通倫)を民情視察を目的に派遣する。7月19日に沖縄に戻った茂憲は、8月17日から31日にかけて2人を案内して先島(宮古、八重山など)の実情を視察した。茂憲は帰県の際に妻兼ら家族を同行し、那覇で生まれた娘に「琉」と名付けている。
 沖縄県民の窮乏を見た2人は、茂憲県令が行く先々で、「教育の大切さ 」を説き、基礎を教える小学校設立を奨励していることに胸を熱くした。茂憲は鷹山公の精神を沖縄に根付かせようと教育を重視している。その後、尾崎は9月中に本島を巡察し、茂憲と池田と県治について議論したが旧慣習を守る尾崎とは異見だった。東京に戻った尾崎は半月余かけて「沖縄県視察復命書」を書き上げて11月27日に参議山県有朋に呈した。政府では報告を受けた松方と山田には、政府に対する茂憲らの異議申し立ては批判的で、沖縄に置くには上杉県令は沖縄県民に寄り添いすぎて危険だと更迭に進んだ。
    
五、沖縄県から中央へ留学生
 明治15年10月21日に、県令茂憲が念願とした在学3ヵ年の県費留学生の東京留学が実現した。師範学校生徒の太田朝敷(首里士族 )、岸本賀昌(那覇士族)、謝花昇(東風平間切平民 )の三人と、26日に首里中学生徒の伊江朝沢(病気を理由に首里士族の高嶺朝教に交代 )、今帰仁朝蕃(華族子弟)の2人で、留学生のことは事後承諾となったが、11月15日付で大蔵卿に上申している。彼らは池田書記官とともに上京、茂憲と親交がある学習院創立の功労者で旧大名の立花種恭の口利きで、学習院に編入され、寄宿舎も世話され、その後は其々が希望する学校に進学した。
4 帰県後は、太田と高嶺は沖縄初の新聞「琉球新報」の創刊に参画し、のちに太田は沖縄砂糖会社の社長となり、沖縄の政財界に重きを成した。
(写真左=「崇元寺橋」、個人蔵、写真提供:米沢市上杉博物館)
 
高嶺は沖縄銀行頭取、首里市長、沖縄県議会議長、沖縄選出の代議士。謝花は「沖縄時論」を創刊し、沖縄の農民のため自由民権運動の指導者となった。岸本は内務省官吏となり、沖縄に戻り沖縄選出の代議士から那覇市長となり、県立図書館を造った。茂憲が送った第1回県費留学生は、沖縄の近代化に貢献し各界において活躍した。また、県令を解任されて沖縄を去るとき、奨学資金として私費で1500円(また3000円とし現代の価値で1億円以上とも)を寄附している。選れた人材を育てなければ沖縄の未来が開けないという信念からだったという。

六、県令の罷免
 上杉県令が沖縄着任した明治14年7月、離れ島の粟国島で村吏の「徴税徴収の不正」を告発し、「課税帳簿の公開」を要求する島民たちと村吏との間で紛争が起こり、翌15年5、6月にも農民からの取立てに過剰があったとして数百人の島民が村吏の居宅を襲う事件に発展し、県もやむなく鎮圧に当るという状況だった。政府から派遣された2人の官吏が東京へ戻った後、県令茂憲は、政府の許可なく悪税の廃止など一部負担軽減を強引に実行した。それが旧慣温存で特権を持つ村吏ら反対派から政府に報告があった。それらのことから、明治16年(1883)4月24日に、茂憲を元老院議官に転出させる県令更迭が決定した。次に着任した県令の岩村通俊は前県令茂憲が目指した旧慣習、遊郭改革など、事々く社会を混乱させるとして元の旧慣温存に戻した。    
 大正8年(1919)4月18日に茂憲が亡くなったとき、東京で葬儀を行い、港区白金の興禅寺に埋葬された。沖縄の人々は県令の茂憲を忘れず、米沢の上杉家御廟所には、遺髪を入れた沖縄県民有志による顕彰碑(痙髪碑)が建てられている。平成6年(1994)には、沖縄県民有志から上杉家に県令茂憲の功績を讃える顕彰状が贈呈され、当主の邦憲氏を沖縄県那覇に招いて受賞祝賀会が開催された。

むすび
 太平洋戦争の沖縄戦で多くの犠牲者を出した沖縄県は、明治政府による琉球処分により正式に日本の領土である1つの県となった。その初期において、沖縄県令として上杉茂憲は大きな足跡を残した。その思想の底流となっていたのが、江戸中期の名君で、米沢藩中興の祖上杉治憲(鷹山)公の民を思う心であった。 大きな借財で苦しめられた米沢藩は、鷹山公が一生をかけて返済したが、明治初期の沖縄県の状況が赴任した上杉茂憲にとって同じように感じたのだろう。このことで、茂憲も鷹山公に倣って、自らも実践したいと試みた。
 しかし、中央政府要人は、政府が求める政策に従わない茂憲を疎んで在任2年余りで罷免し、茂憲は沖縄県を離れることになった。だが、上杉茂憲が蒔いた種が、後に現代の沖縄県に引き継がれて大きな花を咲かせることになった。

引用・参考文献
・高橋義夫「沖縄の殿様」(中央公論新社 2015)
・童門冬二「上杉茂憲」(祥伝社 2011)
・新里恵二、田港朝昭、金城正篤「沖縄の歴史」(山川出版社 1972)
・「沖縄県史料」近代4 上杉県令沖縄関係資料(沖縄県沖縄史料編集所 沖縄県教育委員会 1983)
・「沖縄県史」十一 資料編1 上杉県令関連日誌(琉球政府編集、琉球政府 1965)
・我部政男「 日本近代史のなかの沖縄」(不二出版 2021)
・「沖縄県の歴史」(山川出版社 2004)
・特別展「上杉伝来写真 華麗なる人脈、米沢との絆」(米沢市上杉博物館 2022)
・「上杉家御年譜」二十 茂憲公(2)(米沢温故会 1984)
・「上杉家御年譜」二十三(米沢温故会 1986)